リレートーク “姫百合コース” Vol.4

我が青春の清風寮と山岳部

小沢 弘子 (昭和35年4月~38年3月在籍・松尾支部)

【清風寮】

寮生活

学式の前日、バスと電車に乗り継ぐこと3時間、母に付き添われて寄宿舎の門をくぐりました。部屋は1階の13号室で3年生2名、2年生1名、1年生2名の5人で、初めて顔を合わせました。学期ごとに部屋替えがあるので夏休みまではこのメンバーで一緒に生活をするのです。

 玄関のすぐ脇の小部屋は寮生が当番で、来客の応対や電話の取次ぎなどをする宿直室。その隣に舎監室があり、舎監の先生が交代で泊まり込んでくれました。ほとんど利用しませんでしたがアイロン室もありました。トイレは突き当りにあり、1階に5部屋、2階に7部屋あったような気がしますが、何しろ60年も前の事で記憶が定かではありません。

 渡り廊下を挟んで食堂、炊事場、お風呂場、洗面所などがあり、松川さんというおばさんが常駐して食事の用意をしてくれていました。60人もの食事を一人で作るのは大変なので、当番が早起きして一緒に作ったり、買い出しをしたりしました。

※ Fの軌跡「旧校舎から新校舎へ(Gallery)」より

 朝6時、当番の鳴らす「カランカラン」という鐘の音で起床。洗面、部屋の掃除を済ませてから、全員食堂で朝食。丼飯とおかずは朝昼2食分なので、朝、ご機嫌で食べ過ぎてしまうと、お弁当用の御飯がなくなってしまいます。

 夕食までは自由に過ごし、その後自習時間があり、9時に点呼。当直と舎監の先生が各部屋を回って来るのを正座して待ちました。

 大体がこのような毎日なのですが、バス旅行やクリスマス会などの楽しい行事もありました。特にクリスマス会は盛大で、平日よりちょっと豪華な食事が出ました。また、各部屋で趣向を凝らした寸劇をしたり、洗い桶をひっくり返して太鼓代わりに叩いて歌ったりと、何日も練習を重ねた出し物で大いに楽しみました。

クリスマス会(前列左から5人目が私です)
寮舎の前で(左端、私です)

三六災害

生活の3年間の中で一番大きな出来事は、三六災害(※1)に遭遇したことです。何日か降り続いた雨で野底川が氾濫し、第2グラウンドがだんだんと削られて、近くの民家も流されるのを目の当たりにするようになると、寮内でも危機感が募りました。順番で不寝番をすることになり、不安で眠れない夜を幾晩も過ごしました。ラジオも聞けず情報が全く入らないので、我が家はどうなっているのか不安な日々の中、大鹿から大西山を越えて歩いて来た人が、例の大西山の崩落の大惨事を知らせてくれました。大鹿出身の人が集まって嘆き悲しんでいるのを聞きながら、「遠山もそうかも・・・」と心配でたまらず、部屋の隅で泣きました。

 水道も止まっていましたが、幸いにも近くの民家の井戸水を分けて頂くことができ、バケツで何往復も水貰いに通いました。何しろ60人もの大所帯が使う水ですから。その後、自衛隊が災害復興のため駐屯すると、昼食のための炊き出しを手伝いました。熱いご飯で掌を真っ赤にしてたくさんの塩むすびを握り、キュウリの塩漬けを添えました。

※ Fの軌跡「旧校舎から新校舎へ(Gallery)」より

海外へ渡った同寮生と仲間との思い出話

の仲間の中にブラジルに渡った人がいます。彼女は「卒業したらブラジルで花作りをしたい」と夢を語っていましたが、20歳の時に写真お見合いをして、婚約者が待つブラジルへ横浜港から単身で旅立って行きました。かの地で花卉農家として大成功を収め、何回かご主人とお孫さんたちを伴って帰国していますが、5年ほど前「もう最後の帰国になるかも」という知らせに、近隣に住む同寮生が10人ほど集まり、思い出話に花が咲きました。

「冬の早朝、柏原の堤で下駄スケートを履いて滑った。」

「運動部に入りたかったが夏休みなど長期休業中は食事が出ないので自炊しなければならず、余分なかかりは親に申し訳なくて言い出せず、部活に入るのを諦めて放課後楽しそうに運動をしているのを部屋から羨ましく見ていた。」

「裏口近くのお店にコッペパンを買いに通った。」

「三六災後の夏休み、途中で車に拾ってもらって大鹿に帰った時、大きな石と流木で大荒れに荒れた小渋川を見た時の驚き。」

「中庭を開墾してネギなどの野菜を作った。」

などなど。

「上下関係も学び協調性が養われたことは、後の人生において大いに役立った。」

の言に、一同深く頷いたものでした。

※ Fの軌跡「旧校舎から新校舎へ(Gallery)」より

【山岳部】

夏山合宿

年の夏はホームシックで、休日に部活動する余裕もなく家に帰りたいばかりでした。動機は何であったか定かではありませんが、2年から山岳部に入りました。

 四季それぞれに近場の山から南北、中央アルプスまで幾つもの山に登り、登った数と同じだけの思い出がありますが、中でも4泊5日のテント泊の夏山合宿の思い出は、いつまでも色褪せない宝物です。

文化祭展示の説明をする

 今のように軽いザックや羽毛のシュラフもなく、重たい横長の黄色のキスリングに寝袋。5日分必要な食料は勿論フリーズドライもない時代の事、生米に缶詰めや野菜、調理用の鍋などを手分けして持つと、相当の重さになりました。顧問の七海先生の「6貫目までに収めて」とのアドバイスにより、着替えと行動食はギリギリに抑えました。

 2年の時は、栂池から白馬岳、唐松岳を経由して五竜岳をピストンという、後ろ立山縦走で、登山口まで飯田線、中央線、大糸線を乗り継いでの1日がかりの移動でした。40年後に夫と同じルートを歩きましたが、マイカーを利用し、往路の栂池も復路の遠見尾根もゴンドラに乗ってと、とても手軽になっていました。当時、感動した天空の天狗大池、「おしゃべりは止める!」と言われて緊張して通過した不帰の峰、雪渓での雪遊びなど、あの時のあの友この友の言葉や情景が、懐かしく蘇がえってきました。

文化祭展示

 3年の夏山は、大町からバスで扇沢へ、そこから針の木の大雪渓を登った後、一旦、黒部川に下ってポンポン船で富山側に渡り、ザラ峠へ登り返して立山を縦走し、ハイライトは剱岳へ登るという豪華な山行でした。戦国時代に越中の国主・佐々成政が厳冬期に富山県側から立山に入山し、針ノ木峠を越えて大町に至った話は有名ですが、その逆を行ったのです。

 剱岳は随所に鎖場があり、特に蟹のヨコバイ、タテバイ(※2)と呼ばれている所は、日本アルプスの中でも指折りの難所で、現在でもここで一歩が踏み出せずに立ち往生してしまう人がいるそうです。

 35年後に夫と再訪した時にも「顧問の先生はよくこんな怖い山に女の子を10人も連れて来てくれたものだ」と改めて驚き、感謝しました。

体育大会の部活対抗リレー(前列左から2人目が私です)(*冒頭の写真はこの白黒写真を元にAIが着色しました)

百名山、そして第2の青春

40代の後半に夫から仙丈岳登山に誘われましたが、ブランクも長いし体重も10キログラムも増えているので、心配しながらも登ったところ、何と山頂に立てたのです。その時の感激で完全に焼けぼっくいに火がついてしまいました。

 入った山の会で百名山(※3)に出会い、完登すべく山登りに一層拍車がかかり、仕事の休みの週末ごと山に行き、55歳の時に北は利尻岳、南は屋久島の宮之浦岳までの百座を登り切ることができました。

 海外の山にも足を延ばし、韓国、台湾、マレーシアの最高峰(※4)に登り、カナダや中国ではトレッキングをしました。娘一家も巻きこみ、夫、娘、孫4人の7人で近隣の山はもとより、北海道の山から小笠原諸島の母島でも登山を楽しみました。

 膝の具合が悪くなって登山ができなくなるまでの20年ほどは、第2の青春を謳歌しました。こうして楽しい人生を送れたのも、高校生時代の山、そして、かけがえのない仲間との出会いのおかげだったと感謝しています。

(※1)三六災害について詳しくはこちら
(国土交通省 天竜川上流河川事務所Webサイト内「三六災害60年」)

(※2)剱岳 蟹のタテバイ・ヨコバイについて
(THE  JAPAN  ALPS Webサイト内「難所詳細ルートガイド/剱岳 〜カニのタテバイ・カニのヨコバイ〜」)

(※3)日本百名山について
(登山&アウトドアガイド 沖本浩一Webサイト内「日本の山と自然/日本百名山」)

(※4)韓国、台湾、マレーシアの最高峰などについて
(登山&アウトドアガイド 沖本浩一Webサイト内「世界の山と自然/アジア」)