リレートーク “姫百合コース” Vol.2

『飯田風越高校との37年間について』

木下 懿都子
(風越13回生[昭和33年(1958年)4月~36年(1961年)3月在籍]・松尾支部)

 寺田みの里さんからリレーのバトンタッチを受けました木下懿都子です。どうぞよろしくお願いいたします。私は飯田風越高校との関わりがあった37年間について記したいと思います。


1、生徒の時代
(昭和33年4月から昭和36年3月まで)

(イ)通学について

 私は電車通学をしておりました。桜町駅に近い学校の裏門からの出入りでした。ほとんど正門は使いません。駆け込み乗車でしたが、車掌さんも親切で、生徒が乗るまで発車しないで待っていてくれました。いつも満員で鞄が結構傷みました。

※ Fの軌跡「旧校舎から新校舎へ(Gallery)」より

(ロ)学有林作業について

 毎年4月に全校生徒が学有林作業を行いました。上郷の姫宮神社に集合し、学有林の下草刈りを行いました。3年生の時は丸太を切り出し、山中を引き摺り運びました。この丸太は将来、新築校舎建築に使用されると聞き、一生懸命やりました。

 終了後は広場にて楽しい一時を過ごしました。後に、この学有林が全国コンクールで表彰を受けました。

※同じくGalleryより

(ハ)音楽堂について

 音楽堂は独立して講堂の横に建っていました。中は階段式の机と椅子になっていまして、音楽の先生を見下ろすような状態です。先生がレコードにスプレーを振り、丁寧に扱っていました。

 その教室の横に小さな個室のオルガン室があり、個人レッスンができました。私はオルガンに憧れて器楽クラブに入部し、楽しみました。(あまり上達はしませんでした。)

※同じくGalleryより

(ニ)文化祭について

 当時は9月に行いました。1日目の午前中は講堂にてクラブの研究発表がありました。特に郷土班・社会班・数学班など、夏休みに現地へ出向いての研究で、内容もしっかりしていて感銘を受けました。

 体育館は食堂で、風越名物の「うどん」と「おしる粉」。いつも満席で大好評。食堂係の方は前日から大忙しでした。

昭和34年9月(高校2年)体育大会 行進 (中央ゼッケン「5−2」が私です)
昭和35年9月 文化祭・体育大会 ファイアストームの炭の片付け(宿泊して翌朝)(前列右が私です)

(ホ)内山花火工場の爆発

 3年生(昭和35年)の時、学校近くの内山花火工場が爆発しました。私は花火の爆発とは思わなくて爆弾が落とされたと思いました。私の命もこれで終わりかと本気で思いました。急いで先生を先頭に全員机の下に身を隠し、そのうち放送で校庭へ避難するよう指示が出され、校庭へ集合。すると花火の黒い玉が落ちていて、再び校舎内へ避難し、放送を待ちました。ガラスは全部叩いて落としました。

 当時は大きな音がすると生徒は「きゃあ」と言って身を縮めました。爆弾で無くて本当に良かったと思いました。

昭和35年5月 内山花火工場爆発 礼法室
昭和35年5月 内山花火工場爆発 理科教室

(ヘ)生徒会役員として

 生徒会役員の間、他校の女子高校を訪問しました。長野西・須坂東・松本蟻ヶ崎・諏訪二葉高校など訪問し、生徒会について話し合いを行い、少しでもお互い理解を深め、活動することを目的としました。

 他校に比べて風越はとても活発でした。クラブ数も沢山あり、他校の皆さん、びっくりしておりました。

 以上、生徒の頃の思い出を記しました。


2、風越高校事務職員として勤務
 昭和36年3月に卒業し、4月から事務職員として勤務(昭和54年4月まで)

(イ)三六災害について

 昭和36年6月、伊那谷を襲った三六災害を経験しました。当時、母校は60周年記念に図書館を建築しておりました。(現在、飯田創造館の敷地)そして第二グランドが野底川近くにあり、坂道を下って行きます。(現在、創造館の駐車場になっている)その野底川が氾濫し第二グランドも削られ、グランド近くの民家が濁流に呑まれました。その様子を見ておりまして体が震えて止まりませんでした。

 幸い、図書館は無事で関係者もほっとしました。1ヶ月ばかりは災害の対応に追われる日々でした。

(※当記事の最後に「三六災害」について詳しい外部Webサイトへのリンクがあります。)

※同じくGalleryより 図書館と坂道も見える。

(ロ)当時の事務室

 当時、事務室には7名の職員がおりました。当時はガリ版印刷でしたので、なかなか大変でした。そして次々印刷機械が新しくなり、だんだん手間がかからなくなりました。

 授業料の徴収も全日制は学年別、クラス別に箱の中へ袋を入れる。定時制は事務職員が夜、徴収しました。当時、生徒の給食を少しいただいて食べることが嬉しかったです。

 また、プールの所に花梨の木が有り、実を砂糖漬けにし、来客や職員で美味にいただきました。

昭和41年3月 職員一同記念写真 (前から2列目右から5人目が私です)

(ハ)男女共学・校舎移転の話し

 数年後には男女共学の話が出て参りました。現在地ではとても狭いので移転建築の話しへとなりましたが、地元の皆さんの移転反対の声が強く何度も話し合いが行われ、飯田駅と桜町駅から通学できる場所へということになり、現在の新校舎の土地となったわけです。

 飯田市にとって風越高校の生徒は賑わいを見せ、発展に貢献していたようです。

 私も旧校舎から新校舎へ引越しをし、男女共学となった母校での勤務を味わいました。高台から旧校舎を取り壊す姿を眺め、いよいよ最後の本館取壊しが始まる前日、職員皆で旧校舎の校長室へ集まり、名残りを惜しみました。涙が溢れて止まりませんでした。昭和54年4月転勤となり母校を後にしました。

※ Fの軌跡「旧校舎から新校舎へ(Gallery)」より


3、同窓会役員として

 60歳の定年まで他校へ勤務しました。退職後は同窓会常任理事として母校に関わりました。

「薬師寺東塔の校名が書かれている瓦」

 特に印象に残っていることの一つは、飯田地方の2月の大雪の日に奈良薬師寺の東塔が改築され、校名が書かれている瓦と対面する約束でしたので夢中で奈良まで行き、約束を果たすことができたことです。

 1枚の瓦は劣化が進み、母校へ返却され校長室に飾ってあります。もう1枚は再び東塔の屋根に使われています。完成した東塔をぜひ見たいと思います。

(※当記事の最後に「薬師寺東塔の校名が書かれている瓦」について詳しい外部Webサイトへのリンクがあります。)

薬師寺東塔の屋根に使われた校名の入った瓦
薬師寺東塔 重ねてあった瓦を片付ける松久保伽秀住職(建築現場にて)
薬師寺東塔 住職さんの案内で同窓会奈良支部の皆さんと改築現場見学



「生徒会と同窓会の共同企画・ラオスとカンボジアへの支援活動」

 もう一つは、生徒会と同窓会で行っているカンボジア飯田小学校への支援ですが、カンボジア支援の前にラオスへスニーカーを贈っていました。そのスニーカーが何処の学校へ贈られたか判りませんでしたが、現地の日本人の方のおかげで贈り先が判明し、カンボジア行きのNPO緑の基金の皆さんとラオスの小学校(「ターバラン サイ」小学校)へ行くことができました。

 先生方、生徒さん、村長さんから盛大な歓迎を受け、感謝の言葉をいただき、大変嬉しく思いました。

 同行した皆さんから「飯田風越高校の生徒会と同窓会は素晴らしい。全国でも協同して行っている学校は無いのではないか」と、お誉めの言葉をいただいたことです。

平成25年1月29日 ラオス「ターバラン サイ」小学校 校長先生と校門への入口にて
平成25年1月29日 ラオスの小学校にて挨拶をしているところ
平成25年1月29日 ラオスの小学校にて支援物資を子供たちに渡しているところ
ラオスの小学校 先生方(女性)、村長さん、警備の方、伊沢先生と
平成25年1月30日 カンボジアの飯田小学校 峰村先生と
平成25年2月2日 カンボジア スナーダイ・クマエ孤児院にて

4、最後に

 私の人生の半分近くを飯田風越高校との関わりの中で生活できましたことは、私の宝となっています。これからも母校の発展と同窓会の発展を心よりお祈り申し上げます。

 次は、母校で保健体育の先生をやっておりました今井順子さんにリレーいたします。

三六災害について詳しくはこちら
(国土交通省 天竜川上流河川事務所Webサイト内「三六災害60年」)

薬師寺東塔の校名が書かれている瓦について詳しくはこちら
(信濃教育会Webサイト内『薬師寺東塔「縁の瓦」』)