リレートーク “大根坂コース” Vol.2

『青春時代を駆け抜けた3年間』

宮下 将吾 (風越46回生・喬木支部)

1 はじめに

 私は、1991年4月に飯田風越高校に入学しました。共学になってまだ13年ということで、男女比は普通科でも男子:女子=1:2でした。1クラス男子15人、女子30人の合計45人で、当時、世間から噂されていたとおり「平和な高校」で3年間を過ごすことができました。

 高校時代は部活動、クラスマッチ、風越祭、強歩大会、修学旅行、恋愛、勉強など楽しい思い出ばかりが詰まった時間を駆け抜けました。

 現在は紆余曲折を経て、飯田市鼎で弁護士として働いております。

 今回は同窓会のリレートークという機会をいただきましたので、高校時代の思い出を記したいと思います。


2 高校入学時

 私は喬木中学出身でしたが、入試の際、進路担当の先生から「風越は厳しいかもしれない」と言われていました。あまり勉強が好きではなく、数学だけは出来る自信があったので、先生の助言を無視して受験した記憶があります。

 入試当日、校門で先生が悲しそうな目で私のことを見つめていたのがいまだに忘れられません。

 入試の結果は、おそらく数学は満点近かったと思いますが、他の科目はほとんどできなかったので、ギリギリで合格していたのだと思います。

3 入学してからの勉強

 勉強が好きではなかった分、中学時代から続けていた吹奏楽部に打ち込みました。恥ずかしい話ですが、赤点をとることは日常的で、学年360人中357番を取ったこともありました。それから、古典の偏差値が「7」を記録したこともあり、偏差値で「7」ってあるんだ、と別の意味で感動した記憶もあります。

 担任の唐澤功先生には心配ばかり掛けていたことと思います。

 そんなわけで高校時代はほとんど勉強をすることなく、専ら部活動に勤しんでおりましたので、今回のリレートークも部活動の思い出を中心に振り返らせていただきます。

 高校入学してすぐ、部活動の勧誘を受けて吹奏楽部に入部しました。当時の吹奏楽部は部員総数も90名近くいて、大編成を組んでもレギュラーになれない人もいる状態でした。先輩たちのレベルは高く、県大会のコンクールでも成績優秀だったと聞いていました。

 まずは6月に開催される定期演奏会に向けての先輩たちの練習を間近に見て圧倒されました。定期演奏会ではチャイコフスキーの「序曲1812年」(※1)やアルフレッド・リードの「エルサレム賛歌」、ポップスではドラマ音楽や映画音楽なども予定されていました。

 特に「序曲1812年」はナポレオン率いるフランス軍のロシア遠征を描いており、両軍の攻防や戦況が目に浮かぶ大作であり、終盤の大砲の代わりに叩くはち切れんばかりの大太鼓、教会に鳴り響く鐘の音の再現に武者震いがしたのを覚えております。

定期演奏会の様子

 これまで中学校では全日本吹奏楽連盟の課題曲などを演奏していましたが、高校に入ると全世界の名曲やクラシック音楽の世界が広がることにやりがいを感じました。言いそびれましたが、私の楽器はサックスでした。

 風越高校はコンクールよりも定期演奏会に力を入れており、地域住民の皆さんや友人・知人などで満員となった飯田文化会館で1年間の集大成を発表する場でした。演奏のみならずパフォーマンス、寸劇などを取り入れて観客を魅了するにはどうすればいいかを部員みんなで話し合い、演奏会のテーマ、選曲、演出を考えることはまさしく自分たちの手で作り上げていく醍醐味がありました。

 顧問の吉川良彦先生も人情味あふれる先生で、音楽の奥深さや楽しさを教えてくれました。

 日々の練習は、音楽堂の周りで個人練習、パート練習、それを踏まえての全体練習で吹奏楽ならではの全員が「気持ちを一つに」音楽を奏でる楽しさがありました。卒業式では、体育館の2階で卒業生や在校生を見下ろしながら、「威風堂々」(※2)を演奏して優越感に浸るのも吹奏楽部の特権でした。

 空いた時間での遊びにも事欠かさず、男子は草野球をしたり、部室でトランプをしたり、悩みや恋愛、将来の夢を語り合うなどの楽しい時間を過ごしました。

 2年生、3年生になってもそのスタイルは変わらず、他校の吹奏楽部との交流を広げたり、各校数名ずつ参加するリーダーズバンドにも参加したりして長野県内の吹奏楽部員との合同演奏をする機会にも恵まれました。野球部の同級生の応援のために炎天下の球場で応援歌を演奏したことも良き思い出です。

 高校3年生の最後の定期演奏会では、テレビでもよく流れる「カルミナ・ブラーナ」(※3)や何度も練習したコンクールの課題曲「ターンブル・マーチ」(※4)が思い出の曲です。また、コンクールでもこの2曲で中南信大会を勝ち進み、県大会で銀賞をとることができました。これらの曲と併せて、全国の吹奏楽部員に人気の「宝島」(※5)は今でも演奏している状況が夢に出てきます。

サックスを演奏

 ここまでは吹奏楽の話でしたが、高校時代は今思えば馬鹿なこともたくさんしました。もう時効だからお許しいただきたいところですが、自転車通学で飯田高校下のいわゆる「竜坂」を下る際、自動車を追い抜いたことで警察から厳重注意を受けたこと、最寄駅までしか利用が許されていなかった原付バイクを学校近くの裏山に隠し、帰りに3人乗りをして警察に捕まったこと、夜遅くまで音楽堂で女の子たちと話し込み、親を心配させたことなど、本当に問題児だったなあと思います。

 高校3年生になると色気づき、吹奏楽部には似つかわない体を鍛えるために筋トレに夢中になったこともありました。その甲斐あってか、風越祭の運動会の棒倒しでは、自分が棒のてっぺんに上って棒を倒すことができたという武勇伝もありました。

風越祭の棒倒し 棒のてっぺんを取り、棒を倒すことができました!

 以上のとおり、勉強そっちのけで高校3年生を楽しみ尽くした自分は、大学に進学できるはずもなく、当然のことながら浪人生活を送ることになりました。

 しかしながら浪人生活も全寮制で一人暮らしの楽しさを謳歌し、形だけの勉強しかしなかった結果、2年浪人することになってしまいました。

 実はその時の経験がその後の人生を決める要因になりました。と言いますのは、飯田高校に進学していた中学時代の同級生も一緒に浪人をしていたのですが、彼は山岳部で政治や経済、社会全般について語り合う高校時代を過ごしており、一方の自分は楽しさだけを謳歌する高校生活でした。彼から、「将ちゃん、大人の話が全然できないね・・・」と言われてしまい、何も言い返せなかったのです。そう言われた悔しさが動機となって日本大学法学部に進み、吹奏楽とは無縁の弁論部に入部したのでした。

 大学の弁論部は、政治や経済、社会問題について語り合い、まさしくバンカラの雰囲気も残っていました。吹奏楽部で多くの女性に囲まれていた環境とは真逆の男だらけの部でした。

 法学部のゼミでは、1年かけて模擬裁判を作って自分たちで発表したり、裁判手続を勉強するなどしていました。そんな大学生活を送る中で、次第に周りの友人の影響も受けて司法試験を目指すようになりました。

 ちょうど、司法試験制度も新しくなり、法科大学院が設置され、中央大学法科大学院へと進み、約7年がかりで司法試験に合格することができました。

 振り返れば、高校時代に楽しすぎる青春時代を先に謳歌してしまったが故に、その反動で弁護士を目指すようになったといえます。

 今回、風越高校同窓会の役員に誘われ、少しでも母校の発展や後輩たちの役に立つことができれば恩返しができるのかなと思って活動をしております。

 同窓会も120周年記念式典を終え、先輩たちの築き上げた長い伝統と歴史を繋ぐことができました。飯田風越高校同窓会が盛り上がることで、在校生やこれから入学する子どもたちも活気づくはずです。

 引き続き駆け抜けた青春時代を思い出しながら、母校への恩返しを続けていければと思い、次回は常任理事を長く務められ、現在も会長委嘱理事として同窓会活動を支えてくださっている伊藤篤さんにリレートークのバトンをタッチしたいと思います。

(※1)チャイコフスキー 1812年(序曲) 小澤征爾

(※2)エドワード・エルガー 行進曲「威風堂々」第1番

(※3)カールオルフ カルミナ・ブラーナ おお、運命の女神よ

(※4)1993年度課題曲(Ⅰ) ターンブル・マーチ

(※5)宝島 真島俊夫編曲