リレートーク “姫百合コース” Vol.5

小川陽子[昭和35年(1960年)4月~38年(1963年)3月在籍・大島支部]

 友人の小沢弘子さんから、バトンタッチされましたが、私は可もなく不可もない高校生活を過ごしたので困りました。ただ私の姉達、実家の家族が揃って卒業生ということで、書かせていただくことにしました。

姉たちの学生時代

戦争に翻弄された女学校時代

 「神国の日本は絶対に勝つと、純真な女学生の私達は疑うことを知らず、勉学を捨て農家の田植え稲刈りに、そして二つの工場動員に駆り出され、馴れない旋盤の前に立ち、手や衣服を黒くして働きました。(石鹸が無いので洗ってもきれいになりません)

伊那工業への動員(創立100周年記念写真集『 Fの軌跡』「戦前・戦後の混乱期から新制高校へ〜日中戦争から第2次大戦期の学校」より、以下同)
短繊維工場への動員

 朝は暗いうちに家を出て、夕べは月影を踏み帰宅、お国のために働きました。2週間に1日だけ学校への通学日があり、国語・数学を学びました。月1回の名曲観賞はとても心が休まり、嬉しかったことを忘れません。

 ある週の通学日、学校へ行くと教室の壁はぶち抜かれ、学校工場になっていて、1学年上の生徒たちが必勝の鉢巻をして、和紙に糊付け作業をしていて驚きました。これは風船爆弾という兵器の一つで、気流に乗せてアメリカ本土に到着させ爆発させるという、実際に日本軍が使用したものだそうです。

風船爆弾の紙張り

 校庭は食糧増産のサツマイモ畑に、校庭地下は防空壕に変わっていました。そんな環境もごく当たり前として受け入れざるを得なかった12~3歳のお下げ髪の女学生時代。

 一番吸収できたであろう年頃に、戦争の一端を担い過ごしたことが、とても悔やまれます。今の平和が永久に続くことを心から願い、ペンを置きます。」

勝つために食糧増産 *冒頭の写真はAIが着色しました。

 名古屋に住む、県立飯田高等女学校44回卒業[昭和17年(1942年)4月~21年(1946年)3月在籍]の姉に女学校時代のことを聞いたところ、前文のような手紙をくれました。

 そして、入学した頃は戦況が悪くなかったため沢山の教科書に恵まれ、セーラー服や革靴まで注文し作ってもらい、希望に満ち入学したそうです。1学期までは良かったのですが、2学期からは手紙にあるような生活になってしまい、英語も習えないばかりでなく、それまで使われていた英語の言葉も使ってはいけないことになったそうです。

 姉は子育てが終わるころからNHKのラジオ基礎英語を学んだりもしていましたが、夫の仕事で外国に滞在した時に、 英語を話せないことが悲しかったと言っています。

 終戦の7ヵ月後には卒業だったそうです。戦争に翻弄された女学校時代だったことが分かります。

姉は
「大変な女学校生活だったけれども、当たり前のこととして受け入れていたし、先生や友達とのふれあいで楽しかったこともあったのよ」
とも話しています。

 姉は90歳近くまで、中京支部の同窓会に参加させていただいたのですが、大変歓迎していただき、飯田から来られた校長先生や同窓会長さんと同じテーブルにして頂いたと、恐縮していました。

戦争、そして終戦

 県立飯田高等女学校45回卒業[昭和18年(1943年)4月~昭和23年(1948年)3月在籍]の実家の義姉は、生田から山吹駅まで50分くらい下駄や草履で歩いたとのことです。入学した時はセーラー服だったのですが戦況が悪くなって、やはり学徒動員で働くこともあり、セーラー服は着てきてはいけないといわれ、

「親の絣を解いて、お姉さんに縫ってもらった服や、もんぺ姿の変な格好で学校へ行っていたの」
とのこと。

 家が農家だったので米があり、弁当に入れていけたそうです。 やはり学徒動員で上市田の農家の手伝いに、茶碗や箸を持って行ったそうです。

 雨降りの時は、歌を歌ったり出し物をしたりして若いので楽しかったとも。戦争には勝つと信じていたのですが、女学校在学中に2人のお兄さんが戦死し、こんなことになってと悲しみを味わっています。

 終戦の時は校長先生から説明があり、校長先生は肩を震わせ涙ながらに説明されたそうです。 

義姉は
「女学校の年齢から、友人と共に泊まったり働いたりして我慢をしたことが、後に家庭を持って嫁ぎ先の家族との暮らしにも役立ったと、同級生とよく話した」
そうです。

出征兵士の家庭への勤労奉仕

[以下は同じく『 Fの軌跡』より引用]

セーラー型制服(昭和3年〜17年入学者まで)

 セーラー服に決定したのは、昭和2年1月でした。冬は濃紺一色のセーラー服に黒のネクタイ、裾に1本の白線の入ったひだスカートでした。夏は白のセーター服に黒のネクタイ、スカートは夏・冬同じでした。その後、夏の制服は白ブラウスに、裾に白線の入った濃紺のジャンバースカートとなり、昭和15年にはその白線もとれました。
 靴下は、黒の木綿のストッキング、靴の色も黒でした。髪型は15年まで束髪、以後髪を切って後ろで2つに分けてゴムでとめるスタイルとなりました。

冬の制服(セーラー服)スカートの白線がシンボル
昭和15年以降のセーラー服姿 スカートの一本線がとれている
夏の制服(セーラー服)
当時のセーラー服姿
夏のジャンバースカートとブラウス

ヘチマ衿の上着とジャンバースカート(昭和17年〜終戦まで)

 白のヘチマ衿がついた紺の上着とジャンバースカートは、第二次世界大戦中の全国共通の女子校の標準服として制定されました。腰はベルトで締め、生地はスフのサージでした。夏は木綿の白ブラウスにジャンバースカート、赤い鼻緒の白木の下駄履き姿でした。
 戦火が苛烈化する中で、スカートはモンペに変り、生地は木綿の絣または縞を用いたものでした。上着の左胸には血液型、住所、氏名を書いた名札をつけての登校でした。

ヘチマ衿制服(冬型)
ヘチマ衿制服(モンペ着用姿)
木綿の白ブラウスにジャンバースカート(夏型)
ブラウスにジャンバースカート

(以上同じく『 Fの軌跡』「写真で見る制服の変遷と経緯〜飯田高等女学校」より)

戦後、学制改革、飯田風越高校の発足

 長野に住む姉[昭和20年(1945年)4月~24年(1949年)3月在籍)を同窓会名簿で見ると、飯田西高等学校併設中学校のページに名前があります。

 当時の飯田中学が東で、女学校が西ということだったそうです。

 小学校から受験して女学校へ行った姉は4年間が過ぎる時、学制改革でもう2年行かなくてはならないことになり、4年で退学したとのこと。一つ違いの妹(風越5回卒)が居たこともありますが、戦後どこの家庭も切り詰めた生活だったと思います。

 姉は
「戦後の物の無い時で、親も大変だった時なので仕方ないこと」
と分かっていても、今も残念に思っているようです。一緒に通学した仲良し2人の友人や、多くの学友も退学したそうです。

 風越5回卒の姉は、長野の姉のことを、
「学制改革の犠牲!気の毒だった」
と言っています。

 長野の姉の4年間の思い出を聞くと、遠足で天竜峡まで歩いていき
「そのとき初めて天竜峡を見た」
と言っていました。

 夏休みに霧が峰キャンプの募集があり、姉は参加しました。それが唯一の修学旅行らしいものだったと言っています。茅野の駅から霧が峰まで歩いたそうですが、雨具が無いので皆、和紙に柿渋を塗った物を持参したそうです。ところが心配した雨に降られ、セーラー服の襟の紺色の染料が身頃の白い生地に染まってしまった友人もいたそうです。セーラー服に縞のズボンだったそうです。

 在学中に飯田の大火(※)があり、学校が何日か休みになりました。女学生は各々知人や親戚の家に大火の片付けの手伝いに行ったそうです。そして登校すると礼法室が避難者の避難場所になっていて、大変ショックを受けたそうです。

「礼法室は授業で礼儀作法を厳しく教えられ、白い靴下でなければ入れなかった神聖な場所だった」
からだそうです。

 また、風越高校の校名について興味深いことを聞きました。姉の在学中当時、東と付いた飯田中学が「飯田高松高校」(*現飯田高校)となり、東と付く学校がなくなったのに西高ではおかしいと、校名を考えたそうです。当時の在職中の先生方が候補を挙げ、生徒の意見で「飯田風越高校」と決まったそうです。

(※)1947年(昭和22年)4月20日 飯田大火
長野県飯田市で飯田大火が発生しました。市街地の一角で発生した火災は強風と乾燥した空気により燃え広がり、焼損面積は市街地の4分の3に相当する600,000平方メートルに及ぶ大火となりました。

同じく『 Fの軌跡』「飯田風越高校の発足、小伝馬町校舎時代〜発足当時の風越高校」より

飯田風越高校はじまりの頃

 風越5回卒業[昭和25年(1950年)4月~28年(1953年)3月在籍]の東京の姉は、音楽の金子先生が2年間担任だったため夏休みはクラッシックの曲を聞いて、その感想を提出する宿題があったとのこと。あの階段教室の音楽堂も在学中に造られたそうです。その金子先生の力で近衛秀麿やテノール歌手の中山悌一を呼んだそうで、音楽好きの姉は良く覚えているそうです。

 今の風越の制服は、姉の在学中にできたとのこと。 在校生の投票で「一本線」「Fのマーク」に決まったそうです。

 修学旅行は電車が飯田駅始発なので、飯田の母の実家に泊まり祖母が飯田駅まで送ってくれたとのこと。豊橋周りで東京・伊豆大島へ行き、中央線周りで帰宅。 伊豆大島へ行く時は船が小さいので、みんな船酔いをしてしまったそうです。

伊豆大島行 芙蓉丸[昭和27年3月](同じく『 Fの軌跡』「飯田風越高校の発足、小伝馬町校舎時代〜修学旅行」より、以下同)
[昭和27年3月]三原山

 姉は
「入学試験の日にお弁当に、鯖を入れてくれたことを覚えている。親のエールだったんだね」
のほか

「私の時は400人定員だったけれど、女学校44回・45回の名古屋や実家の姉たちや4年間で退学した長野の姉のころは250人定員だったので、村で2~3人しか入学できなかったんだよ」
とか

「通学は下駄履きで、ある日、下駄の鼻緒が切れてしまい、帰宅途中200メートルくらい、はだしで帰宅した」
また

「混雑した電車の中で、布のかばんの紐が切れて、本当に恥ずかしかった」
など、笑顔で話してくれました。

通学に2時間、それも楽しい思い出

 風越7回卒業[昭和27年(1952年)4月~30年(1955年)3月在籍)の東京に住む義姉は、阿南町大下條から2時間掛けて通学したそうです。

 最初は清風寮に入ったのですが、
「わたしは生意気だったんだね。居心地が悪くて出てしまい、下条村の友人と追手町で下宿を始めたの。そしたら母が怒って、寮に居られないような娘は家から通いなさいと言われたの」

 そんなわけで2時間掛けて通学したのですが、それも結構楽しかったそうです。

 風越5回・7回卒の2人の姉たちの話によると、東京支部の総会は大変盛会で300人ほどが集まると色々話してくれました。母校から校長先生、同窓会長など10人近くが来られることが多かったそうですが、ここ3年はコロナで開けなかったそうです。姉たちは毎回同級生と誘い合って参加してきたようです。

 特に7回卒の方たちは団結力が強く義姉の友人の平栗さんという方が、今年まで10年くらい東京の同窓会長を勤められたそうです。また、東京の同窓会報「かざこし」を1年に1回発行しているそうです。

 毎回総会の講演会に著名な講師を招き、飯田深雪さん、ピアニストの中村紘子さん、海老名香葉子さん、鎌田実さん、三遊亭小遊三さんなどが見えたそうです。

 ある年は校歌の作詞者、伊澤修二先生が初代校長をされた、今の東京芸大出身の皆さんの和楽器ユニットが演奏をしてくれて、全員で校歌を歌い感激したと話してくれました。

 ここまでが、姉たちの思い出です。

「アルカディア」同窓会 同期の皆さんと

三六災害のこと

 高校2年の時、経験した『三六災害』のことを思い出してみます。

界史の授業を受けている時放送があり、天竜峡方面の友人たちは途中で下校しました。北電の私たちもその後授業が打ち切られ、帰宅するべく桜町駅へ行きましたが、大島方面への電車は既に動いていませんでした。

 藁をもつかむ思いだったのだと思います。大島から遠い飯田駅へ向かいました。大宮通り辺りは道が川のようになっていましたが、家に帰りたい一心でジャブジャブと歩きました。桜町駅が駄目なので飯田駅からも当然大島方面は不通でした。飯田駅はすごい雨と大勢の人でした。

 当時兄が長姫高校に勤め、家族で大宮神社の上に住んでいましたので、そこに行き泊めてもらいました。我が家に連絡しようと近くの公衆電話に行くと長蛇の列で家への連絡も大変でした。

 夜は「ウーウー」と消防車のサイレンが聞こえ、風越山が崩れるとも聞き不安でした。

3日ほど過ぎていたと思います。雨は小降りになっていたので兄の家から学校に行くと、片桐村(中川村)から通勤されていた生物の田中明夫先生が大島方面へ付き添って行ってくださるとのこと。寮生の方たちが作ってくれたおにぎりを腰につけて、トレパン姿で線路を歩いて大島方面へ向かいました。十数人の友だちがいたと思います。

 市田駅の北の大島川は何とか渡れ、あちこちの荒れた様子が目に入りました。下平駅の田沢川は地元の方がロープを張って両方を引っ張ってくださり、つかまってやっと渡れました。山吹駅からは線路の下が削られて通れないとのことで、旧の国道153号線を歩いて我が家に辿り着きました。

 家が生田のH子さんとF子さんは、私の家に一泊して松川町に救援に来た自衛隊の方に付き添っていただき、峠地区や塩倉地区の家に帰られました。

 学校から飯田線を歩き、私たちを連れてきてくださった田中先生が「この子達を無事家に連れて行けるか(?)と思ったら、生きた心地がしなかった」と言われたことを知ったのは、40年も経ってからのことでした。 先生には申し訳なく、ただ感謝するばかりです。

校が始まりましたが電車が不通なので、江戸町の親戚から通学させていただき、市田駅以南が開通してからは自宅から3キロくらいの河野村(豊丘村)まで歩き、そこからバスで市田駅まで行き、市田から電車で通学しました。下校時に河野村から自宅へ歩いて向かった時、通りかかったトラックの荷台に、友人と共にスカートの制服姿で乗せてもらったこともありました。

が家に泊まったF子さんはその後結婚して神奈川県に暮らしておられましたが、生家のご両親が高齢となり家族で帰郷されました。ある時スーパーの駐車場でばったり出会うと「懐かしい あの時は有難う!」とポロポロと涙を流されました。

 彼女は生田の自宅で山村留学の子や修学旅行の生徒を受け入れて活躍されました。私も朗読ボランティアや絵手紙グループで一緒に行動しましたが、そのF子さんは重い病気にかかり60代半ばで亡くなられてしまいました。

 『三六災害』について思い浮かんだことを書いてみました。

[以下は同じく『 Fの軌跡』より引用]

建設中の独立図書館、三六災害で傷手


 昭和36年の集中豪雨で野底川が氾濫、濁流で第二グラウンドが削り取られ、建設中の図書館にも危険が迫りました。このため、生徒職員がPTAや自衛隊の協力を得て応急対策にあたりました。
 …本校生徒の被害状況は家屋の流出、全壊、埋没34名、床上浸水19名、床下浸水128名、重症者4名というものでした。
 また被害を受けなかった生徒は、被災地で炊き出しや保健所の消毒作業など救援活動に参加、災害救助への生徒参加者は延べ350名に及びました。

濁流と化した校舎下の野底川
上部右に見える図書館
被災後仮設された橋と崖上に見える校舎
図書館下の応急対策のため石運びをする生徒達

(以上、創立100周年記念写真集『 Fの軌跡』「飯田風越高校の発足、小伝馬町校舎時代〜災害」より)

のほか、卒業生には22回卒の松川町の姪、27回卒の所沢の姪がいます。 実家の県立45回卒の義姉の長男(私の甥)の奥さんM子さんの代からは柏原校舎の卒業になります。その娘たち3人も卒業生の風越家族です。

第7回文化祭・体育大会アーチの前で(右側が私です)
文化祭のキャンプファイヤー
文化祭・体育大会のスナップ
生物の授業の一環で霧ケ峰高原へ *着色加工してあります。

越高校(飯田高女)へ行って良かったと思うことは 姉達も私も、良き友人に恵まれ、それぞれ良いお付き合いをしていて、それが大きな宝になっている。ということに尽きます。