カンボジア支援活動の経緯と現状

活動20年目の節目にあたり

橋本 義哉(共学一期生[風越33回生])

 今から20余年前、「不惑」の歳を目前に、私達共学一期生の男子数名は、母校のために「何かがしたい」と思い悩んでいました。在学中は話したことも無い面々でしたが、「一期生」という宿命を感じていたのは同様らしく、毎月一回は常宿の居酒屋で杯を重ね、熱く語るようになりました。折しも創立100周年記念事業の準備が始まっていた最中、同窓会に男子が参加する良い機会でもありました。


 「何かがしたい」=「国際教養科のスタート」、これが始まりでした。国際支援とは? 何を調べ、どのように行えば良いのか? まず初めに国際支援の実状を講演して頂きました。この時の講師が堀本崇さん、当時ABN(長野朝日放送)が主催する「ラオスへスニーカーを贈る」活動への参加が決まっていましたが、実際にカンボジアで活動していた堀本さんの話しを聞くことはとても有意義でした。

 それから7年、ラオスへの支援が終わり、次の活動をカンボジアと決めた際、見えない意志に導かれた気がしました。ただただ残念なことにその堀本さんはカンボジアの地で交通事故に遭い、亡くなられていたのでした。飯田市公民館主催のスタディツアーで堀本さんが行って来た活動に触れた時には感涙。「私達にできることは何か?」


 ラオスへは毎年約1,000足のスニーカーを贈りました。風越祭で収集、サイズ分けをし、汚れているものは洗いました。贈った運動靴でオリンピック選手が練習しているとの話しも聞きましたが、時が経つに連れ充足し、ABNは活動を中止。

 この時、活動継続の是非も含め、支援先を国内にするか、東日本大震災の復興に協力するかなど思いは逡巡しましたが、学校・生徒会・同窓会が協同一致して行っているこの活動は、将来世界に目を向けていく後輩達のため閉ざすことはできないと考え、「NPOふるさと南信州緑の基金」との連携に至りました。


 20世紀末のポル・ポト政権による大虐殺の暗黒時代から世界遺産アンコール・ワット等の遺跡群を有する大観光立国に至ったカンボジア。それでも私達の日常とは程遠い現状、経済・教育・環境すべてにおいて支援は不可欠です。そして新たな課題、民主主義の崩壊(繰り返す歴史)、貧富の格差の増大、経済大国による市場統制(支援という名の統治)。「私達がしなくてはならないことは何か?」

 国内の経済活性化を目指す観点から、支援物資の受入は大幅に制限されました。渡航での持込は原則禁止、船便の搬送も1回に2箱(1箱10㎏)まで、しかも保管料や受取費が掛かり、送り状には「日本製」「贈り物」の記載が必須です。


 令和4年度は海外支援活動20年目。この活動の意義、「恵まれている今に感謝すること、視野を広げること、自分のしたいことは何か? 何ができるのか? 何をしなくてはいけないのか?」これらのことを後輩達に伝えること。