リレートーク “大根坂コース” Vol.1

『なぜ、山に登るのか』

橋本 義哉(共学一期生[風越33回生]・鼎支部)

 卒業から40余年、現在の「私」がある根源、我が家のルーツとも言える在学3年間でした。

 夫婦で親子で兄弟で家族4人が同窓生、PTAや同窓会にも携わり、今も母校と共にあります。

 入学式から一週間、クラブ訪問で尋ねたのは「山岳部」、土曜の午後の一室に10名ほどの先輩方が、初の男子部員となった私を歓迎してくれました。何故にこのクラブを選んだのか? 新しい自分を探そうとしていたあの時、その選択は人生に大きな影響を及ぼした一瞬でした。

 入部から2週間が経ったある日、登山用品の老舗「アルス」に連れて行かれ、靴やユニフォームなどを購入。その頃には男子一人で心細かった私の誘いに快諾してくれた木下和人君が入部、いよいよ後戻りは出来なくなりました。

「八ヶ岳にて」(右端は海野先生、隣が私です。)

 新歓コンパ、針ノ木岳雪上訓練、八ヶ岳縦走、南アルプス夏合宿と山行を重ねるにつれ、友達・先輩・顧問の先生方との絆が深まり、このクラブに入部して良かったと実感しました。

 もちろん重いザックを背負い、疲労も厭わず、雨中でもカンカン照りでも黙々と歩くことは楽ではありません。ですが自分の足で一歩一歩確実に「頂き」を目指し、その努力で眼下に広がる壮大な景色を、仲間と一緒に味わうことは至上の喜びでした。

 風雨に晒されても愚痴ったところで止みも弱まりもしません。自分の糧は自分で賄うしかなく、重くても食材を背負い、自らで調理し片付けます。仲間が疲れたり苦しんでいれば助けるのは当然でお互いさま。大自然の中で人間の無力さを嘆くより、仲間と「あるがまま」を受け入れた方が楽しいのです。雨が降るから木々は育ち、努力を継続するからこそ成果は現れるのです。

「表銀~槍穂 縦走」 

 3年生が引退した夏、仲間が増えます。新井勉君、原田幸浩君。これで4人、みな5組、みな長男、橋本(鼎-B型)・木下(伊賀良-AB型)・新井(松尾-A型)・原田(座光寺-O型)

 何故か気の合う4人、飯田に戻り、所帯を持ち、仕事も子育ても一生懸命。全員揃わない時もありましたが、この4人で新年の祝杯(飲み初め)を挙げるが恒例。今年はコロナ禍で残念・・・。

 3年生になる直前の春休み、八ヶ岳合宿で左足首を骨折。夏まで松葉杖生活でしたが進学は愛知大学、ワンダーフォーゲル部で4年間を過ごしました。往時の体育会サークルは想像を遥かに凌ぐ厳しさ。上下関係、規律、連帯感を養いました。この大学を選んだ理由は豊橋校舎がどの山域にも近いこと、昭和38年1月に北アルプス薬師岳で13名の遭難事故があったこと、登山を続けるつもりだった私には他の選択はありませんでした。この時の仲間も宝物です。

「稜線」山行記録

 卒業後は建設会社に入社、営業マンとして日々奮励努力しています。家庭も仕事もそろそろ世代交代、学んだこと、教えて頂いたことを的確に伝えなくては。これが最後の責務です。

 あの時、飯田風越高校山岳部に入らなかったら? 彼ら3人に出会わなかったら? 先輩後輩や先生方とテントで「人生とは?」と語らなかったら・・、今の私は居ません。当然この原稿も書いておらず、母校も忘れ去り、家庭や仕事も異なっていたかもしれません。

 だからいつも、たぶん最期まで恩返しをしたいのです。母校や後輩のために少しでも役に立てるのなら、もう少し『母校への登山』を続けたいと思います。目標を掲げ、挑戦すること、努力すること、諦めないこと。

 日々の感謝を忘れず、いつでも仲間を大切に。 ・・・『そこに山(十人十色)があるからだ』

「徒然なるままに・・」

 次回のリレートーク “大根坂コース” は、現在同窓会でも活躍されている宮下将吾さんにバトンをお渡ししたいと思います。