リレートーク “姫百合コース” Vol.7

小伝馬町校舎の思い出

平栗彰子[風越7回生・東京支部]

小伝馬町の校舎(1)

 小伝馬町の風越高校・校舎に通ったのは、もう75年も前のことになります。

 幼稚園の頃からの仲良しと中学で3年間同じクラスで、そのまま風越高校へ進みました。その頃は自転車通学をする人はいなくて、私も歩きでした。

 白山通りの我が家から箕瀬を通り知久町を下って、銀座の信南バスの前にあった山田みやげ店の初っちゃんをまず誘い、銀座から伝馬町へと進んで紀子さんに声をかけ、学校へ向かいました。

 30分はかかったでしょう。その頃はみな足袋で下駄ばきでしたが、私はぽっくり下駄が好きで通学にも履いていました。知久町一丁目の太田下駄屋さんでいつも誂えていました。

 伝馬町二丁目の角を右に折れ、福川洋服店の前を通り、その先を左に曲がって椎名病院を左に見て通り抜け、小上がりの坂を石の校門へと向かいます。先生が待っていてくださる時もありました。

小上がりの坂の上の正門(創立100周年記念写真集「Fの軌跡」より)

 正面に石の碑(忠礼殿)があり、一礼して左の下駄箱に向かいます。ぽっくり下駄を入れるのにやっとの大きさでした。初っちゃんと紀子さんとは別のクラスでしたので、そこでお別れです。

下駄箱(旧校舎から新校舎へーGalleryより)

 忠礼殿を一回りした先の校舎本館は石造りの廊下で、職員室、事務室などが並び、石の階段は長年の上り降りのため、真ん中がすり減って凹んでいました。

生徒昇降口より本館へ(Fの軌跡より)
校長室・事務室前の創立以来の石畳(Fの軌跡より)※現校舎の生徒昇降口前に敷かれています
本館廊下(Fの軌跡より)
本館廊下(Fの軌跡より)

 授業はまじめに受けたつもりです。音楽と体育が好きな科目で、その頃芸大を出られた山下先生が赴任され、一層力が入りました。体育館と礼法室の間に音楽堂が新しく作られて、当時としては珍しい階段教室での授業でした。

新築されたばかりのモダンな音楽堂(昭和26年)

 昭和26年10月、創立50周年を経た学園内に出現した音楽堂は、内外共にモダンな建築物で、生徒たちの音楽熱もより高まりました。一見2階建てに見える音楽堂の内部は奥が低くなった階段教室で、東側上部がバルコニーとなっており、その下は講堂へ続く通路、室内には研究室や器楽練習個室も備えた近代的かつデザイン性にも優れた建物です。市立と県立の統合を機に飯田市の負担で新築されました。

 この素晴らしい音楽堂を生徒たちも誇らしい気持ちで利用しました。その成果は昭和29年の全国合唱コンクールにおいて第2位の栄冠を獲得したコーラス班の活動にも現れています。
(Fの軌跡より)

 山下先生は発声法の基本から専門的な指導をされました。声は後頭部から頭のてっぺんに向けて抜けるようにして出すものだと教わりました。コールユーブンゲン、コンコーネなど、歌う前の予備練習としての基本から始まりました。

 当時、風越高校合唱部は音楽コンクールに出場して、全国的にもかなり優秀な成績を収めたと記憶しています。下井満寿子さん、小原浪江さん達が部員として活躍していました。

完成した音楽堂でコーラス部のお別れ会(昭和27年)(Fの軌跡より)

▼合唱班が準優勝した全国歌唱ラジオコンクール(現Nコン)に関する記事は「会報第63号の9ページ」に詳しいです。ぜひご覧ください。

 体育の鈴木先生は岡谷から転勤され、スケートを教わりました。国体の選手もされたという実力の持ち主で、厳しく怖い先生でした。

 でも冬の間の体育の時間は楽しみで、午前中いっぱいスケートの授業に振り替わって、ほかの授業はお休みでした。野底川の上流にある柏原の堤(つつみ)が教場になり、下駄スケートを下げて出かけました。下駄に刃をつけただけのもので、足袋をはいた足にひもでぐるぐる巻きつけるのです。足先は寒さを通り越して感覚がなくなっていました。

 授業は、土手での途中の休憩をはさんで、正午近くまで滑ったと思います。リンクがあるわけではなく、田んぼをぐるぐる回るだけのコースでしたが、楽しかったです。

千人塚下駄スケート(昭和26年)(Fの軌跡より)

 本館正面玄関から廊下を抜けたところに、小使い室がありました。ご夫婦とみられる初老のお二人が常時お湯を沸かし、先生方のお茶の用意などをしていたと思います。土づくりのしっかりとした竈が据えてあり、部屋全体が暖かでした。

 私は小使いさんと仲良しになり、暖かいその部屋をほとんど毎日覗いていました。暑い時は水を飲ませてもらい、寒くなるとお弁当を竈の脇に置かせてもらって、昼食時にほんのり温まったお弁当箱を取りに行っていました。高校時代をなんと調子よく過ごしていたことかと、呆れます。

 小使い室の脇を通り抜けて奥へ進むと、宿直室がありました。当時、男先生たちは交代でお泊りをしていて、小使いさんがこちらのお世話もしていたと思います。今でしたら警備保障の会社にお任せするところでしょうか。

宿直室と職員トイレ(旧校舎から新校舎へーGalleryより)
宿直室裏と火鉢(花活け用)(旧校舎から新校舎へーGalleryより)

小伝馬町の校舎(2)

 授業では、英語、国語、生物、日本史など、沢山の学科も教えて頂いたのに、内容はさておき、先生にいたずらしたことがまず浮かんできます。

 英語の岩田先生は、時間中黒板の方を向いていることが多かったので、その背中に向かって白墨を投げて命中率を競いました。ややお太り気味でいらしたので確率は高かったです。

 生物の棚田先生とは、生涯、絶対に許さない!と思ったエピソードが二つありました。

 1年生の時カエルの解剖をするから各自用意しておくように、との先生の言葉。裏の田んぼでとても大きいヒキガエルを早速捕まえて空き缶に入れて飼っていました。餌も与えているうちにだんだん大きくなり、缶の底におなかがべったりとくっついて、白い肌にさび色が付くほどになりました。

 そのうちに情が移り、どうしてもこの子を解剖の材料にすることなどできない気持ちになりました。

 それで棚田先生に、「私は解剖は致しません、今手元にあるカエルを切り刻むことはできません」と申し出ました。

 先生は、「ああそうか」と言われただけでしたが、結果その学期の生物の成績は2でした。でもヒキちゃんの命を全うさせたからいいや!と2を受け入れました。

 もう一つはこれも解剖がらみで、学校の周りを野良犬がうろうろすると、必ず先生が捕まえに行き、午後にはもう生物教官室の板戸に磔(はりつけ)になっていたのを数回見たことです。

 先生としては実地の教材として貴重なものだったのでしょうが、十代の女子にはどうしても許せなかった事実として、いまだに脳裏に残っています。棚田先生はご自分の目指すところを曲げず、生涯を生物教師として全うされた方と思います。

 当時、社会科の中に「一般社会」という科目があり、安原先生が受け持たれました。もうご高齢でいらしたのか貫禄があり、ゆったりと授業をされました。

 先生の質問に「わかりません」と答えると、「どうしてでしょう?」と反問され、しばらく沈黙の時間が流れました。

 試験問題は白紙のわら半紙一枚の解答用紙が配られ、黒板に「日本の明治時代について」、「憲法とは何か」など、大上段に振りかぶった問題が一つだけ!回答をひねり出すにはアタマも時間も足りませんでした。

 まず疑問に思ったことを選び、羅列して、筋道をつけて考えるという、思考の順序を教えてくださったのだと思います。高校時代の柔らかいはずの頭が、どれだけ先生の指導方針に沿って働いたか、今となっては想像もつきませんが、教育に関してご自分の考えをしっかり持った、個性的な先生方に囲まれて、環境だけは整っていたと、今となっては感謝しています。

充実する学園生活(Fの軌跡より)

秋の大運動会(昭和27年)
秋の大運動会(昭和27年)
新たに制定された制服を着て遠足に(昭和28年)このクラスは市の瀬へ
雪の校庭
雪合戦をする生徒(昭和29年)
エンジ色表紙の歌集 昭和28年11月1日発行 飯田風越高等学校編集部発行

 昭和30年代以降の修学旅行は奈良・京都など関西方面が中心ですが、計画を立てる先生方も熱心に研究をされ、少しでもよい旅になるよう努力されています。修学旅行は経済負担も大きいだけに、単なる遊びではない文字通りの修学旅行を目指したのです。
 生徒もそれに応えて、よく下調べをし、現地でも熱心にメモをとるなど、学ぶ姿は立派でした。こうした態度は見学先でも評判となり、お褒めの言葉をいただくことも多くありました。
 「風越高校には質問に答えられるベテランガイドをつけています」と旅行業者の方に言われるほどだったようです。
(Fの軌跡より)

昭和28年のスナップ

 明治35年の校舎完成以来、70年以上の歳月を女学生達と一緒に過ごしてきた小伝馬町の校舎。思い出深いこの学舎とも、ついにお別れの時が近づいてきました。昭和46年に柏原への校舎移転が決まったのです。
 激しく移り変わる時代の流れの中で、小伝馬町校舎はそこで学んだ数多くの生徒や先生方の思い出の中へ大切にしまわれて、今もその輝きを失うことはありません。
(Fの軌跡より)

教卓にはいつも花が
姫百合賞を目指して歌い続けたあの日

※冒頭の写真は「創立90周年記念誌  風越 〜学びの業をいそしみて〜」(平成3年4月25日発行)より「小伝馬町校舎の航空写真」