4月25日は飯田風越高等学校の創立記念日でした。
今から125年前の1901年の同日、飯田風越高校の前身である「下伊那郡立下伊那高等女学校」の開校式が行われました。
朝の全校放送で、学校の歴史と、戦後「風越」という校名になった経緯を生徒に話しました。
創立記念日(4月25日)校長講話
飯田風越高等学校の歴史
本校は、戦後に2つの学校が統合してできた学校です。一つは、今から125年前の 1901 年(明治34年)に「下伊那郡立下伊那高等女学校」として誕生しました。(その後比較的すぐに、長野県に移管され、長野県立飯田高等女学校となっています。)開校式が4月25日でしたので、毎年今日のこの日が創立記念日となっています。
当時は、女子教育に対する世間一般の関心が少なく、生徒集めにかなり苦労したようです。初年度は、90名ほどの生徒が集まり、入学試験はなく、全員入学を許可されたそうです。学校の場所は、今の桜町駅から少し下った飯田警察署の裏の現在の風越(ふうえつ)公園のところにありました。公園内に記念碑があり、毎年秋に、同窓会の皆さんが掃除をしてくださっています。(写真①②③)
もう一つの本校のルーツは、それから20年後の 1921年に、飯田町(現在の飯田市)によって創設された「飯田職業学校」です。この学校は現在の追手町小学校のところにあり、男子部と女子部がありましたが、その後すぐに男子部は飯田商業学校(後の飯田長姫高校)に、女子部が本校の前身の一つである「飯田実科高等女学校」となりました。
戦後、両校が統合して、「飯田風越高校」となりました。全日制は普通科と家政科(当時は被服課程)の2学科、働きながら学ぶ定時制課程もありました。その後、1976年 (昭和51年)に、現在のこの柏原に移転し、その2年後に男女共学となりました。(写真④) 校舎がこの地にできて今年で50年になります。国際教養科の設置は2002年(平成 14年)で、国際教養科は今年で 25年になります。家政科は 2009年(平成 21年)に閉科となっています。
戦後、本校が「風越」という校名になった経過をお話しします。現在県下でも高校の統合が行われていて、校名は公募で募集して、教育委員会や生徒を含めた学校関係者で決定していくのが一般的ですが、本校の名称「風越」は、全校の生徒と職員が集まって、話し合いと投票で決めたものだそうです。
その経過を知ることができる当時の生徒の文章がありますので、今日はそれを紹介したいと思います。(部分的に読みやすくなるように改変しました。)
*
全校投票による校名の決定
昭和24年4月19日、全職員、全生徒が講堂に集まりました。校名改称の話し合いです。桜町高校、桜ケ丘高校、城北高校、白嶺高校、白根高校、風越高校、その他、先生からも生徒からも意見が出されました。「桜町」は範囲のせまい名前、「桜ケ丘」は桜の木があまりないから駄目。「城北」は敗北に通ずる。「白嶺」は嶺の字の字画が多すぎる。「白根」は生徒の足に似ている。ある先生は「風越高校」は、あしたにこの山を仰ぎ登校、夕べに仰いで帰る、我らの山、風越はどうだ。」と言い、女の先生は、「風越はひびきが強すぎるからむかない。」と言う。ある生徒は「今は男女同権の時代だ。強い方がいい。われわれは風越山のように…。」と壇上で力説。これが半日かかった一つのテーマで全校が一致した時でした。
その後、全校の投票により「風越」と決定しました。お尻が痛くなるほど講堂へ座って全員が真剣でした。無駄話などするひとはいませんでした。学校が永遠に続くかぎり、意味があり、心に残る印象深い校名をと手に力が入って汗が出ました。決定した瞬間ほっとしました。足が地についたような安心感と大地を踏みしめて歩く思いでした。大空に向かってひろびろとした心持ちになりました。先生と生徒が一緒になって腹の底から笑い、一つになっていたのでした。
風越三回生(昭和26年3月卒)
(創立 80 周年記念誌 p.283 から引用)
*
文章の中に、「あしたにこの山を仰ぎ登校、夕べに仰いで帰る風越山」とありましたが、いま、多くの皆さんが「大根坂」と呼んでいる坂は、野菜の「大根」ではなく、本来は「代魂」と表記されていました。これは、山岳信仰(白山信仰)に基づいて、山を神として信仰していた人たちが、のぼりおりしていた道をそう名づけたと考えられます。
「足が太くなるから大根坂」ではなく、歴史的な信仰に基づく意味であることもおぼえておいてください。
(飯田風越高校 学校長/下井一志)
※冒頭の写真は『最初の修学旅行ー「北越紀行」よりー(明治35年)』
創立90周年記念誌「風越〜学びの業をいそしみて〜」より


