リレートーク “姫百合コース” Vol.6

座光寺良子[風越2回生・丸山支部]

飯田高女時代の思い出

飯田高女に入学した頃

 昭和19年(1944年)4月、13歳の私は飯田高等女学校に入学しました。

 入学に当たっては入学試験を受けたのですが、思い出すのは身体検査用の下着の用意のことです。

 当時は戦争中で、無い無い、何も無い。食糧も衣料も切符に依る配給時代です。傷んだからといっても新しい物は調達出来ません。

へちま衿の制服(入学時)

 母が用意してくれた白い布を使い、自分で手縫いした上下の下着を着て身体検査に臨みました。決して形のよいものではなかった様な覚えがあります。

 それでも、小学4年生から運針、裁縫の学習をしていたお陰で、きれいな下着で身体検査を受けることができました。

 まだ入学間もなく、クラスの人たちの顔も覚えきらないうちから、地域の上級生を中心に班を作り、農家への勤労奉仕が始まりました。麦踏み、麦刈り、田植え、稲刈りなどです。

 私たちは上飯田の丸山から伊賀良の農家に通いました。

学有林

 勤労奉仕の他、上郷八王子神社奥の学有林(?)に通いました。植林、下草刈りが主な作業でしたが、刈った草を背負って柏原農場にも運びました。

 肥料として使うためだったかと思いますが、通った先は現在の風越高校の在る辺りだったかもしれません。

学有林全景 昭和49年頃 写真中央の斜面(創立100周年記念写真集『 Fの軌跡 』より)
昭和16年に建てられた大標柱と生徒達(同じく『 Fの軌跡 』より)

 植林したあの山は、その後どうなっているのかと、今でも時々思い出しています。

終戦

 当時はとにかく食糧増産が叫ばれていた時代です。サツマイモや麦が主だったように思います。サツマイモは茎も大事な食糧でした。

 校庭の地下は防空壕、上はサツマイモ畑でした。

 住所、氏名、血液型を書いた白布の名札を胸に縫い付けた制服に、モンペ、防空頭巾を持っての通学でした。

 昭和20年、高女2年生の8月、玉音放送に依って日本の敗戦を知らされました。日本は勝つと信じていたので、大変なショックを受けました。

玉音放送を拝聴する(同じく『 Fの軌跡 』より)

 敗戦国となり、戦勝国の統治下におかれて、ジープに乗ったアメリカの軍人が検閲(?)で廻っているのを見かけました。

飯田高女から飯田西高校、そして飯田風越高校へ

生徒達は校友会誌や同人誌で今後は祖国復興に尽力しようと誓い合いました(同じく『 Fの軌跡 』より)*冒頭の写真は着色加工しています。

飯田大火

 昭和22年、4年生になった早々4月20日、飯田の大火で市街地の80%が焼け野原となりました。当日は日曜日で桜の花見日和、戦後初の参議院選挙の日でした。

 火事を知って、私は本町の友だちの家に飛び付けました。間もなく学校が危ないと、友達と学校に飛んで行きました。

 幾人かの先生、生徒が駆けつけており、先生の指示に従っていろいろな物を夢中で校庭に運び出しました。

 楽器等、特にピアノ(※1)大勢で運び出した様子を、今でも鮮明に覚えています。

ベヒシュタインピアノの購入(昭和4年)(同じく『 Fの軌跡 』より)

 夕方になって、校舎の2階から眺めた光景、変わり果てた学校の周り、焼け野原と化した飯田の町の有り様はとても恐ろしかったです。

 家に帰る術(すべ)もなく、私たちはその日は学校に泊まり、翌朝大回りして帰宅しました。家庭への連絡等は先生がしてくださったのか、とにかく無我夢中でした。

 音楽堂(※2:昭和26年10月新築の階段教室)には昭和4年に購入されたベヒシュタインが誇らしげに置かれました。

 ベヒシュタインは、スタンウェイとともに、古今東西を問わず、世界の最高級品とされているドイツ製ピアノです。

 当時とすれば家が2~3軒建つほどの高価なピアノで、その購入には同窓会、在校生保護者からの寄附金によって5年の歳月をかけています。


●創立百周年時のベヒシュタイン/修理調律が済み、とても昭和4年購入には見えない。


●ベヒシュタインの文字が輝く

 創立百周年事業の余剰金によって修復され往事の風格と音色がよみがえりました。



同窓会報より(平成14年10月1日発行)

『ベヒシュタインピアノ』

第17代校長/宮内邦廣

 同窓会の皆様には、常々母校愛に満ちたご支援とご協力を賜っておりますことに心から感謝申し上げます。

 また、創立百周年記念事業に際しましては、その後の剰余金の使途に関して、学校側からの教育環境整備の要望に温かなご理解をお示しくださいましたことに厚く御礼申し上げます。

 お蔭様で、①校内ラン事業の補充、②トイレの補修、③大体育館ギャラリーの床貼り工事、④ベヒシュタインピアノの修理と調律を実現することができました。

 中でも、ベヒシュタインピアノについては少なからぬ感慨を込めさせていただきました。

 このピアノは、昭和三年度の卒業生から七年度の入学生までが卒業時あるいは入学時に一人一円の寄付をし、同窓会から五百円の補助を仰いで、昭和四年に二千五百五十円で購入したものです。

 当時では家が買えるほどの高価なものでした。それだけに、このピアノには当時の生徒達の「高い文化を希求する」高邁な精神と矜持が込められています。

 そして、それは以後何年にもわたって、風越生の魂を象徴するものとして、校歌とともに多くの同窓生に愛されてきたものでした。

 歳月を経て傷みも激しくなり、いつの頃からか音楽室の一角に据えられたままになっていたこのベヒシュタインピアノを修理調律し、飾り物としてではなく授業で使えるようにするならば、往時の同窓生の精神を今に蘇らせ、今後の新しい百年を担う生徒達に長く語り伝えていくことができるであろうし、全ての同窓生の内に秘められている風越魂が営々と引き継がれていく縁(よすが)ともなるに違いないと思うのです。

 そうすることで、愛着ある校歌二番を失ってしまうことを認めてくださった同窓会の皆様へのせめてもの恩返しになってくれるならばと心から願っている次第です。

引用元:飯田風越高校HP



下記の写真は100周年記念館に置かれている現在のべヒシュタインピアノです(令和6年7月17日撮影)

新築されたばかりの音楽堂(昭和26年)
階段教室

 昭和26年10月、創立50周年を経た学園内に出現した音楽堂は、内外ともに モダンな建築物で、生徒達の音楽熱もより高まった。

 一見2階建てに見える音楽堂の内部は奥が低くなった階段教室で、東側上部が バルコニーとなっており、その下は講堂へと続く通路、室内には研究室や 器楽練習個室も備えた近代的かつデザイン性にも優れた建物です。市立と県立の統合を機に飯田市の負担で新築されました。

 この素晴らしい音楽堂を生徒達も誇らしい気持ちで利用しました。その成果は昭和29年の全国合唱コンクールにおいて第2位の栄冠を獲得したコーラス班の活動にも現れています。

ベヒシュタイン

引用元:飯田風越高校HP

学制改革[飯田西高校 飯田風越高校]

 昭和23年、飯田高等女学校は学制改革によって飯田西高等学校と改名しました。

 そして翌昭和24年、飯田市立女学校と西高校とが統合して飯田風越高等学校(※3)になり、私は新制高校3年生に編入となりました。

 文科、家庭科、理科と自己選択してのクラス分けで、私は非常に迷ったように覚えております。

 記念誌によれば『全職員、全生徒が講堂に集まり、校名改称の話し合いがもたれ活発な議論が半日をかけて行われた結果、毎日仰ぎ見る飯田のシンボル、風越山(かざこしやま)に由来する校名に決定した』 ということです。
 また、『真剣な議論がされ、最終的には「かざこし」という語感は男性的だから「ふうえつ」という柔らかな優しい響きの方に決まった』と言われています。

飯田西高校の同級生 校門の前で

 飯田高等女学校の変革は次のようでした。
22年3月 専攻科廃止 本科5年制に変更
22年4月 併設中学校併置
23年4月 飯田西高等学校設置 夜間制も置く・修業年限5年制
23年6月 定時制設置
24年3月 飯田高等女学校及び併設中学校廃止
24年4月 飯田西高等学校・飯田北高等学校統合
24年5月 飯田風越高等学校と改称

引用元:同じく『 Fの軌跡 』

come come every body

 戦時中は、外国語全て禁止で、バレーボールは「排球」、野球のバットを「打棒(だぼう)」と言っていました。

 それが一転、ローマ字を覚え「come come every body」の歌(※4)を歌い、英語やその他の勉強に集中できる時が来たのですが、私は何だか浮かれて過ごしてしまいました。

セーラーカラーの制服(卒業時)

 音楽家を招いての演奏会、クラシックレコードの音楽鑑賞会や、校内学芸会での独唱、日本舞踊、琵琶の演奏会等、感激して今も目に浮かびます。

卒業証書を手に(中央が私です)

Come, come. everybody(カムカム英語)の歌詞(カタカナ読み方付)

【作詞】平川唯一 【作曲】中山晋平

【1番】

Come come everybody.

カム カム エヴリバディ

How do you do, and how are you?

ハウ ドゥ ユー ドゥ エン ハウ アー ユー?

Won’t you have some candy?

ウォンチュー ハヴ サム キャンディー?

One and two and three, four, five.

ワン エン トゥー エン スリー フォー ファイヴ

Let’s all sing a happy song.

レッツ オール シンガ ハッピー ソング

Sing tra-la la la.

シング タララララ~

【2番】

Good-bye, everybody,

グッバイ エヴリバディ

Good night until tomorrow.

グッナイ アンティル トゥモロー

Monday, Tuesday, Wednesday,Thursday, 

マンディ チューズディ ウェンズディ サースディ

Friday, Saturday, Sunday.

フライディ サタディ サンディ

Let’s all come and meet again

レッツォール カム エン ミータゲイン

Sing tra-la la la la.

シンギング タララララ~

【3番】

来い 来い みんな来い

こんにちはで ごきげんさん

お菓子を 召し上がれよ

一つに二つに 三つ四つ五つ

どんどと歌おうよ うれしい歌を

【4番】

さよなら みなさん

おやすみ またあした

月曜 火曜 水曜 木曜

金曜 土曜 日曜

また来てうたおうよ うれしい歌を

引用元:英語会話 | NHK放送史

風越高校3年生 クラスマッチ優勝時 先生方と一緒に(上から2列目、右から8番目が私です)

同窓会、同級会の思い出

優しい “お姉さん” 上級生の方々

 卒業後、戦中、戦後の動乱期を共に過ごした学生時代の方々、学年を問わず何かにつけて親しく思い出します。

 特に丸山地区の上級生の方々の優しい話しぶりや、笑顔等、「お姉さーん」と呼びたくなる程はっきりと未だに目に浮かんできます。よほど面倒をみて頂いたのだと察するのですが、細かくは覚えておりません。

 同窓会、同級会に出席して、あの人、この人に会うのが、大変楽しみでした。

姫百合コーラスの仲間

 いつの頃からか、同年の幾人かが集まって、コーラスの会を始めました。

 同年生の太田秀子さん(後の吉原さん)を中心に、誰言うとなく、「姫百合コーラス」と呼んで、歌うだけでなく、食事会、野点の会や、あちらこちらへ旅行もし、北海道旅行もしました。

長野市時代

 私は主人の仕事の都合で転勤し、長野市での生活をしたことがあります。その頃は子どもが小さくて、家にはまだ電話もありませんでした。

長野市時代の同級生

 それでも、風越高校の同年の方々が、須坂から、篠ノ井からなどと、近在からだんだん集い、あちらのお宅、こちらのお宅、私の家にも寄って頂きました。

 困りごとへのアドバイスを頂いたり、愚痴を聞いてもらったり、励まし合ったりし、助けられました。33歳の厄年には、お互い子どもを連れたりして、厄払いに神社参りにも行きました。

60歳で起業

お店を開く

 私は60歳で起業しました。何の経験も知識も無いのに、ただ夢や想いだけで動こうとして、まずコーラスの仲間に、雲を掴むような話をしました。

 初めは、みんな不思議に思った様子でしたが、結局それぞれの立場で、支え、応援して頂きました。

 お店を営んでいる方からは、店のやり方を教わったり、店内が淋しいからと商品を貸して頂いたりしました。

 手芸の勉強をしている方は、手芸教室、作品展示、販売会を開いてくれたりしました。

 私は手持ち商品として「おやき」の販売を始めたのですが、売り出すまでの試作品の味見をして頂いたり、お客様を連れてきてくださったり等々、思い出せば現在の店のあれやこれやと基礎を作ってもらいました。

 そのうちに地域の人々等、だんだん集ってくださるようになりました。

お店の開店
開店した店内にて

Hand in Hand 和楽(日本語教室)

 開店当時、外国籍の方々の姿をだんだん見かける様になり、言葉、習慣、その他いろいろの事が話題にのぼる様になりました。

 そんな方々に隣人として何かお手伝いできたら……‼︎ との思いから、ボランティアできる人、数人集まって “Hand in Hand 和楽(日本語教室)” が始まりました。

 勉強の場であり、「飯田をふるさと(故里)」と思ってもらえる様な交流の場を目指して活動を続け、約65ヶ国の方々が学び、交流し合って30年になりました。

 その間、風越高校国際教養科の留学生も教室の良き仲間として学び、交流し合い、それぞれ沢山の思い出を残しては次のステージに進んで行かれています。

 現況報告を聞いたり、来飯して教室に顔を出してくださる時の教室中のよろこびは一入です。

勉強の様子
留学生の帰国送別会

皆様から元気をいただき

 高齢化に向かっている地域の中で、何か役立つことができれば……‼と願っての起業でしたが、教えられ、助けられ、元気を戴いて毎日を過ごさせて頂いてきたのは私自身でした。

 友達をはじめ、大勢の方々に係わらせて頂いてきましたが、“人は宝” とつくづく思っております。

 平和な時代が続いておりましたからであり、ただただ世の中の平和を願う毎日です。

引用元:情報ガイド飯田 ふるさと便 1995.12 Vol.37
[企画編集:飯田市役所(旧)農政課農政係内「ふるさと便」編集室(現飯田市役所農業課)]

地域コミュニティーの気楽な活動スペースをめざして
白山町「和楽(わらく)

 白山町の大平街道に面する『和楽(わらく)』を訪ねました。入り口にある紺の暖簾をくぐると、12畳ほどのスペースに、いろいろな手作り品や一般の店では見かけない発展途上国の品物が、所狭しと置かれていました。

 代表の座光寺さんにお話をお伺いしました。

 「年を取った人たちが気軽に集まることができて、勉強やら何がしかの活躍の場を提供できたらと思ったのですが、何から始めていいのかわからずにいました。そんなとき、無担保で資金を貸してくれるWWBジャパンを知りました。電話をして相談したところ、WWB主催の女性のためのビジネススクールを勧められました。さっそく受講し、同じ様な気持ちを持っている人たちを紹介していただき、とにかくできるところからやってみようという気になりました。」

 お店を始めて3年になります。現在の会員は80人くらいです。大小いくつものグループを作って、手作り品の作製やら、各種教室の活動をしています。

 特に、中国からの引上げ者や、アジア各国から飯田に来ている人たちが、気軽な雰囲気で日本語を学んでもらう日本語教室は、今年、「ムトス飯田まちづくり事業」の補助をいただけることとなり、活動の励みになっています。

 最近は月に2回ほど、近所のお年寄りにお弁当を食べてもらいながらおしゃべりをすることも始めました。

 他には、発展途上国の品物を販売することにより、それらの国に仕事を作り出し、文化を伝え、人々を支援する活動(第3世界ショップ)もしています。

 お店が経営として成り立つことが継続の必須条件だと考えています。しかし、会員の手作り品の販売手数料だけでは無理なので、『おやき』を販売しています。おやきの中に入れる具の野菜は、安心して食べられるよう自家製です。できるだけ多くの種類を入れ、栄養のバランスも取り入れることを基本に作っています。

 「いろんな人に気軽に集まってもらうためには、無理なことはせず、地域の中で助け合って、自然発生的な活動をしています」と、張りのある声で語る座光寺さんの笑顔がとても印象的でした。

◉WWB:Women’s World Banking
 女性のための世界銀行。
1980年、国連と世界銀行のバックアップにより設立。1990年、世界で39番目の支部としてWWBジャパンがスタート。具体的活動内容の一つに「女性のためのビジネススクール」がある。

(Special thanks/木下容子様)