リレートーク “大根坂コース” Vol.4

素晴らしいめぐり逢いに感謝

桜井 優 (風越40回生[昭和633月卒]・飯田五地区/橋南第一支部)

〈はじめに〉

 飯田風越高等学校令和4年度卒業生ご卒業おめでとうございます。そして、令和5年度新入生ご入学おめでとうございます。

 同窓会のリレートークを拝見いたしますと、母校に同窓会に貢献され社会で活躍される方々によるお話が当時を偲ばせます。そこへ私のような劣等生が寄稿しようなど甚だ分不相応ですが、私なりにそのころの体験や感じたことを、記憶をたどり思いつくままに綴ります。

〈時代〉

 自分がダイコン坂をかよったのは、昭和が終わるころ。日本はバブル景気の到来で経済が沸き立ち、飯田のまちも、西友、ユニー、平安堂のエリアを中心に、今からは想像できないほど賑わう、そんな時代だった。

四組の生徒と本多先生

〈風越入学〉

 風越高校へ入学して、自分が籍を置くことになったのは一年四組。

 学級担任は本多健一先生。年齢は25歳(当時)で、このクラスが教員になって最初の担任。見た目に線が細くてやさしい印象、まあまあ…ハンサム。対する我らは生意気盛りで、10歳違いの担任を在学中に幾度となく困らせることになる。

 後の人生へつながる高校生活が、この四組のめぐり逢いからはじまった。

男子軟式庭球部の同期生 顧問の本多先生と牛山先生

〈軟式庭球部〉

 まだ入学式も済まないうちに、自宅に先輩から電話がかかってきた。電話の主は、小中学校が同じ二級上の“ヒロタカ先輩”。話は軟式庭球部(軟庭部)への勧誘で、あまりの熱意に押されて好意的な返事をしてしまい、すんなり入部が決まる。だが他では、「俺はユニーでソフトクリームおごってもらった」、「あいつは“りんりん亭”で口説いたのに断りやがった」など巧みな誘惑を仕掛けていたことを後から知った。

・・・“りんりん亭”

 西友から少し下った路地を入るとあったラーメン屋。“大盛り”と頼むと「ウチはもともと量が多いよ」といつも言われて、脂が幕を張るようなスープは案外さっぱりした味で好きだった。ある日、“東京へ修行に行くので閉める”という張り紙がしてあって、それっきりになった。

・・・閑話休題。

 軟庭部へ入部が決まり連れていかれたのは、体育館裏の通路のわきにある薄暗いプレハブ小屋の部室。入ると床がギシギシと抜けそうなほどオンボロだったが、適度の穴蔵感は嫌いでなかったし、何にしても部室という居場所ができたのは、新鮮で画期的な出来事だった。

 新入部員を温かく迎えてくれたのが、実に個性的な先輩たち。自分を誘い込んだヒロタカ先輩は、飯田で名の知られた“大店(オオダナ)の御曹司”。そのペアの相棒が“山吹の秀才”サノさん。新人の自分とペアを組むことになった“予測不能の奇人”タマザワさん。ただ一人の二年生で、その姿をコートで見つけると幸せになれる“絶滅危惧種”イクヤさん。そして軟庭部を受け持つのが、偶然にも四組担任と同じ本多先生。

 なぜヒロタカ先輩が、新入部員の勧誘にあれほど必死だったのか。その訳は、男子軟庭部がおかれた事情にあった。

 当時の軟式庭球は一般に、 “後衛”と “前衛”のどちらかを得意にして、後衛+前衛でペアを組んで試合をするのだが、現役のペアは“サノ(後)+ヒロタカ(前)”一組だけで、タマザワ(後)イクヤ(後)はペアの相手がなく、インターハイの個人戦にエントリーできても、団体戦はできない。しかも、三年生が引退すると、廃部になる危機にあったのだ。そこへ、共に東中で軟庭部だった自分と”テヅカ” “カズシ”の3人が入り、どうにか団体戦も戦える態勢が整う。

 そうして迎えた最初のインターハイ。先輩方の活躍があったものの、あえなく敗退。遠征先から帰った飯田駅のホームには、燃え尽きて感極まり頬に熱いものを光らせるヒロタカ先輩の姿があった。

 三年生が引退した軟庭部は、いかにも頼りない弱小チーム。テニスコートは7面あるが、男子軟庭部が使えるのは1面だけ。大勢の女子部に囲まれる練習は肩身が狭いが、仕方のないことだった。

 なんとかして先輩方の夢をつなごうと、今度は自分たちが軟庭経験者や友人に声をかけて仲間に引き入れた。同じ四組の”ケンイチロウ”は、相性のいいテヅカとペアを組んだ。高陵中野球部上がりの”クラちゃん“は、左利きが放つ逆回転のサーブが武器。他にも部員が増えて、ようやく部活が活気づく。

 そんなほぼ一年生ばかりの軟庭部を牽引したのが、同期の“テヅカ”。やると決めたら強引にでもやり抜いて結果を出す。頼もしいヤツだが負けん気が強くて、自分とぶつかってバラバラになりそうな時もあったが、それをつなげたのが “カズシ”。聴覚にハンデがある“カズシ”が黙々と球を追う姿に諭されて、一つになることができた。

 我々が毎日熱心に打ち込む姿を認めたのか、本多先生も以前に増してコートに来てくれるようになる。学生時代に軟庭部の選手だった先生の指導が、練習の効果を上げてくれた。

 夏休みは学校に合宿して、終日の猛特訓。練習の後はプールで冷たいシャワーを浴び、夜の寝床は教室の机を並べたベッドの上。窓から見下ろす飯田の夜景がきれいだった。

 少しずつ実力が付き、ローカルの大会で上位に食い込むようになる。新年度に有望な新入生が入ると戦力が強化され、惜敗を重ねていたライバルの伊那弥生ケ丘に勝利した時には皆で讃え合った。そうして大会の成績が認められ、あのオンボロ部室を抜け出して、憧れたコンクリート造りのクラブハウス棟へ入居がかなう。

 いよいよ部活も総仕上げ。最後のインターハイ南信大会では、それまで歯が立たなかった宿敵の阿智高校を撃破して団体優勝を果たす。県大会で無念の敗退となるが、先輩からつないだ夢は優秀な後輩たちが後を引継いでくれた。

修学旅行(神戸)

〈七人の仲間〉

 入学当初の初々しさが取れたころ、同じ四組の気が合う七人が自然に集まるようになる。この七人の仲間たちと、教室でも放課後にも一緒に笑い合い、けんかして、しょうない悪さもしながら3年間を過ごした。

今もつづく仲間との付き合い

 その七人の仲間とは、卒業してから現在も関係がつづいている。思い出話をしながら酒を酌み交わし、家族ぐるみの付き合いもあり、これまで人生の節目にはいつもこの仲間たちがいた。今は皆中年になり、それぞれ責任ある立場で活躍しているが、そのようすに自分は励まされている。

本多健一先生(当時)教科は国語古文

〈本多健一先生〉

 高校時代の多感な生徒たちを、やさしく見守り、時に厳しく・・・はなかったけれど、諭して、成長させて下さったのが本多先生だった。

 自分たちが疑問や悩みを携えて国数研室を訪ねると、どんな時も真剣に親身になって応えて下さった。一番の理解者として頼りにしたが、その裏腹に生意気な口を利いてさんざん困らせた。

 背広を脱げば生徒とあまり変わらない風貌なので、修学旅行の夜、宿の遊技場で我らと一緒にふざけて、管理人にたしなめられた事もあった。

 愛車のカムリに乗せてもらって軟庭部の遠征先へ行く道中、カセットで聴いた当時流行りの“中村あゆみ”(※1)が今も耳に残る。

 教師でありながら、絶妙の距離感でいて下さる事がうれしかった。

 卒業式の日。式典を済ませて最後の教室に入ると、いつもそこにいる本多先生がギターを抱えていた。“卒業のはなむけ” だと言ってギターに乗せて唄い始めた、長渕の“乾杯”(※2)。・・・不意を突かれた。やられたと思った。おそらく教室の全員が、このクラスで幸せだったと感謝していた。

技能グランプリ出場

〈社会に出てから〉

 高校卒業後は大学へ進学。家業の印章店を継ぐのが当然という流れに抗いもせず、勉強のため東京に出て同業の会社に入社。その社長の勧めで、東京印章協同組合の技術講習会に入講し、そこでめぐり逢う師匠に学び、仲間と切磋琢磨して技術を身に付けた。

 東京の会社勤めを終えて帰郷してからも、講習会には毎月通い続けて技術を磨くうちに、熟練技能士が卓越した技術を競う「全国技能グランプリ」へ出場する機会を得る。

全国技能グランプリ長野県選手団(左から1人目アツシさん、3人目私)

 そこで、今回リレートークのバトンを渡してくれた“アツシさん“にめぐり逢う。競技の職種は違うが大会に臨むにあたり、経験豊富なアツシさんに勇気づけられ、心の支えになって下さった。それ以来、同じ風越生の縁で親しくしていただき、地元で商売をする先輩としてお世話になっている。

はんこの美展の実演(東京浅草)

 競技会に出場するからには頂点を目指したが、技術は簡単に身につくものではなく、なかなかそこへ辿りつけない。それでも諦めず挑戦を重ねるうちに、運よくグランプリに選んでもらうことができた。

 グランプリ兵庫大会の折に訪ねた、90歳(当時)で現役の大師匠が “一生勉強や”と話してくれた。修行の道はまだ先へつづくが、これまで自分が学び得たものを生かした活動を広げながら、これからも真面目にコツコツ精進をして行こうと思う。

先生から届いた返信の手紙

〈終わりに〉

 一昨々年(令和2年)のこと。本多健一先生が、学校教育に関する功績者へ贈られる教育者表彰【文部科学大臣表彰】を受賞され、時期を同じくして県立高校長人事の新制度による初の再任用校長となられたことを新聞報道で知る。そこで、かつて担任の手を焼かせた七人の仲間と相談して、先生へ宛てお祝いの手紙を出したところ、その返信が届いた。

 封を開け便箋をひろげると懐かしい筆跡がそこにあり、一瞬にして高校時代に戻った感覚で文章を読むうちに、胸が熱くなった。

 文章の一節にこう書かれていた。

「・・・私(本多先生)が過分なる恩恵を被ったのは、いろいろなめぐり逢いも含めた運の良さだと思っています。・・・」

 これまでを振り返ると、自分にもあてはまる言葉だと思う。

 すでに還暦を過ぎた先生は、天職である教育の道を今も歩んでおられる。

 

(※1)中村あゆみ「やせっぽっちのジョニーE.」

(※2)長渕剛「乾杯」