〈軟式庭球部〉
まだ入学式も済まないうちに、自宅に先輩から電話がかかってきた。電話の主は、小中学校が同じ二級上の“ヒロタカ先輩”。話は軟式庭球部(軟庭部)への勧誘で、あまりの熱意に押されて好意的な返事をしてしまい、すんなり入部が決まる。だが他では、「俺はユニーでソフトクリームおごってもらった」、「あいつは“りんりん亭”で口説いたのに断りやがった」など巧みな誘惑を仕掛けていたことを後から知った。
・・・“りんりん亭”
西友から少し下った路地を入るとあったラーメン屋。“大盛り”と頼むと「ウチはもともと量が多いよ」といつも言われて、脂が幕を張るようなスープは案外さっぱりした味で好きだった。ある日、“東京へ修行に行くので閉める”という張り紙がしてあって、それっきりになった。
・・・閑話休題。
軟庭部へ入部が決まり連れていかれたのは、体育館裏の通路のわきにある薄暗いプレハブ小屋の部室。入ると床がギシギシと抜けそうなほどオンボロだったが、適度の穴蔵感は嫌いでなかったし、何にしても部室という居場所ができたのは、新鮮で画期的な出来事だった。
新入部員を温かく迎えてくれたのが、実に個性的な先輩たち。自分を誘い込んだヒロタカ先輩は、飯田で名の知られた“大店(オオダナ)の御曹司”。そのペアの相棒が“山吹の秀才”サノさん。新人の自分とペアを組むことになった“予測不能の奇人”タマザワさん。ただ一人の二年生で、その姿をコートで見つけると幸せになれる“絶滅危惧種”イクヤさん。そして軟庭部を受け持つのが、偶然にも四組担任と同じ本多先生。
なぜヒロタカ先輩が、新入部員の勧誘にあれほど必死だったのか。その訳は、男子軟庭部がおかれた事情にあった。
当時の軟式庭球は一般に、 “後衛”と “前衛”のどちらかを得意にして、後衛+前衛でペアを組んで試合をするのだが、現役のペアは“サノ(後)+ヒロタカ(前)”一組だけで、タマザワ(後)イクヤ(後)はペアの相手がなく、インターハイの個人戦にエントリーできても、団体戦はできない。しかも、三年生が引退すると、廃部になる危機にあったのだ。そこへ、共に東中で軟庭部だった自分と”テヅカ” “カズシ”の3人が入り、どうにか団体戦も戦える態勢が整う。
そうして迎えた最初のインターハイ。先輩方の活躍があったものの、あえなく敗退。遠征先から帰った飯田駅のホームには、燃え尽きて感極まり頬に熱いものを光らせるヒロタカ先輩の姿があった。
三年生が引退した軟庭部は、いかにも頼りない弱小チーム。テニスコートは7面あるが、男子軟庭部が使えるのは1面だけ。大勢の女子部に囲まれる練習は肩身が狭いが、仕方のないことだった。
なんとかして先輩方の夢をつなごうと、今度は自分たちが軟庭経験者や友人に声をかけて仲間に引き入れた。同じ四組の”ケンイチロウ”は、相性のいいテヅカとペアを組んだ。高陵中野球部上がりの”クラちゃん“は、左利きが放つ逆回転のサーブが武器。他にも部員が増えて、ようやく部活が活気づく。
そんなほぼ一年生ばかりの軟庭部を牽引したのが、同期の“テヅカ”。やると決めたら強引にでもやり抜いて結果を出す。頼もしいヤツだが負けん気が強くて、自分とぶつかってバラバラになりそうな時もあったが、それをつなげたのが “カズシ”。聴覚にハンデがある“カズシ”が黙々と球を追う姿に諭されて、一つになることができた。
我々が毎日熱心に打ち込む姿を認めたのか、本多先生も以前に増してコートに来てくれるようになる。学生時代に軟庭部の選手だった先生の指導が、練習の効果を上げてくれた。
夏休みは学校に合宿して、終日の猛特訓。練習の後はプールで冷たいシャワーを浴び、夜の寝床は教室の机を並べたベッドの上。窓から見下ろす飯田の夜景がきれいだった。
少しずつ実力が付き、ローカルの大会で上位に食い込むようになる。新年度に有望な新入生が入ると戦力が強化され、惜敗を重ねていたライバルの伊那弥生ケ丘に勝利した時には皆で讃え合った。そうして大会の成績が認められ、あのオンボロ部室を抜け出して、憧れたコンクリート造りのクラブハウス棟へ入居がかなう。
いよいよ部活も総仕上げ。最後のインターハイ南信大会では、それまで歯が立たなかった宿敵の阿智高校を撃破して団体優勝を果たす。県大会で無念の敗退となるが、先輩からつないだ夢は優秀な後輩たちが後を引継いでくれた。